江戸赤穂事件

元禄14年(1701)3月14日、江戸城内松之廊下で、播州赤穂城主浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に突然切りかかる事件が起きました。時の5代将軍徳川綱吉はこれに激怒、内匠頭に即日切腹を命じ、赤穂藩には取り潰しの断を下しました。一方上野介へのおとがめは一切なかったことから、浅野家の遺臣たちは不公平であると考えました。
大石内蔵助良雄以下、四十七人の完全武装した赤穂義士たちは、元禄15年(1702)12月14日未明、江戸本所にあった吉良邸を襲撃、主君の敵である上野介を打ち取ったのです。この一連の事件を「江戸赤穂事件」と呼んでいます。

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の演目から人気に

この事件は、江戸の人々にとって心の晴れるような出来事でした。事件から46年後の寛延元年(1748)8月14日、赤穂事件をモデルにした「仮名手本忠臣蔵」が歌舞伎の演目として初演され、たちまち人気となりました。その際名付けられた「忠臣蔵」というタイトルは広く知られるようになりました。現在でも、日本人の心を揺さぶる不朽の名作として演じられ、テレビドラマ、演劇、映画、小説、漫画など、さまざまなメディアを通し、人気を博しています。

赤穂藩と加西市


常陸国笠間藩主の浅野長直に、正保2年(1645)6月、赤穂への転封が命じらました。ここに浅野赤穂藩が誕生しました。以後江戸城刃傷事件があった元禄14年(1701)まで、初代浅野長直公、2代長友公、3代長矩公の三代にわたり浅野家の支配がつづきました。
赤穂藩が誕生した当時、所領は約5万3500石でしたが、赤穂郡一円は117ヶ村3万5200石で、加えて飛地として、佐用郡に5ヵ村1200石、加東郡に24ヶ村8200石、そして加西郡に33ヶ村8900石の所領がありました。つまり赤穂藩のうち約三分の一にあたる所領が加西郡・加東郡にあり、加東郡穂積に代官役所を置き当地を管理していました。
当時赤穂領であった加西の村々は、現在の上万願寺、下万願寺、上若井、下若井、大内、上道山、下道山、広原、上野、佐谷、上芥田、下芥田、山田、甲和泉、大工、馬渡谷、鍛治屋、油谷、青野、田谷、小印南、国正となっており、加西市の北部が赤穂藩でした。

赤穂義士ゆかりの地

  • 河上山久学寺加西市上芥田町982

    東京の泉岳寺、赤穂の花岳寺とともに赤穂義士ゆかりの三がく寺の1つ。
    加西市北部には赤穂藩の飛地があり、大石内蔵助が、灌漑工事の進捗状況の確認にこの地を訪れた際、たびたび久学寺に宿泊しました。
    江戸城で刃傷事件が起こった際、江戸から赤穂に早籠が到着した際も、大石内蔵助は久学寺で碁をうっており、赤穂の使者から刃傷事件を聞き、慌てて赤穂に帰ったとの言い伝えが残っています。
    また、討ち入り後には、9世住職 海音和尚が浅野内匠頭長矩公と四十六士の戒名を贈ったとされ、現在でも毎年12月14日に義士祭が営まれています。

    ゆかりの赤穂義士大石内蔵助良雄

  • 奥野将監屋敷跡加西市下道山町559-1(礒崎神社脇)

    赤穂藩士の一人である奥野将監が隠れ住んだという屋敷跡(礒崎神社脇)で、将監は赤穂城明け渡し後、大石内蔵助に次ぐ重臣として大石を支え、藩内の取りまとめに当たりました。
    しかし、浅野家再興が不可能になると、元禄15年8月に脱盟し、討ち入りには参加しませんでした。
    その後、娘が礒崎神社の宮寺快智院に嫁いでいるのを頼り、ウエ門と名を改め、神社の横の山裾に居を構えました。
    禄高1000石の高禄であった将監ですが、討ち入りに参加した藩士が義士として持ち上げられる一方、討ち入りに参加しなかった藩士たちは身を隠すように暮らしていたことを物語る小さな住居跡です。

    ゆかりの赤穂義士奥野将監

  • 伝浅野家献納絵馬加西市上野町69-2(石部神社内)

    正保2年(1645)より元禄14年(1701)まで加西市北部は赤穂浅野家の所領でした。樹齢1300年とも言われる立派な2本の門杉がある石部神社は赤穂領地内にあり、浅野家の崇敬も格別でした。
    拝殿正面に掲げてある巨大な黒馬の絵馬は、浅野家より献納されたものと伝わっています。
    また、石部神社の裏山山頂には皇塚古墳があり、この古墳は、伝承では、日本最古の地誌である『播磨国風土記』が編纂された同時期(養老年間)に、元正天皇皇女が葬送された墓と伝わっています。

    ゆかりの赤穂義士

  • 大石内蔵助の腰かけ石加西市大工町(旧道の路傍)

    大工町の旧道の路傍に高さ50㎝ぐらいの自然石が立っています。地元では「大石内蔵助の腰かけ石」と呼ばれています。
    市北部の大工町は当時、加西郡・加東郡にあった赤穂藩領で、大石内蔵助が当地を訪れた際、たびたび宿泊した久学寺と穂積代官役所とのほぼ中間地にあたります。
    また、大工町の町名は、当時、多数の名大工を輩出した町であることから名づけられたといわれています。
    大石一行が巡行の際、この立石で一息ついたのでしょうか。

    ゆかりの赤穂義士大石内蔵助良雄

  • 八王子神社加西市田谷町1265

    八王子神社は、古くから五穀豊穣、安産守護の神様として祀られてきました。現在の社殿は、元禄6年(1693)当時の赤穂藩の郡奉行で赤穂義士の吉田忠左衛門の尽力により再建されたと言い伝えられています。
    また、赤穂領は約5万3千石の内、加西郡・加東郡に約1万7千石の飛地があり、加東郡穂積に代官役所が置かれていました。その代官役所のトップ(郡代)が吉田忠左衛門で、吉良邸討ち入りの際は老練な副将として討ち入りを成功に導きました。
    当地には、吉田忠左衛門名で村々に発行された免目録(納めるべき年貢米の量、納期などを命じた文書)が散見されます。(免目録は一般非公開)

    ゆかりの赤穂義士吉田忠左衛門

  • 潮田又之丞の母姉の墓加西市北条町北条(菊ヶ谷墓地内)

    潮田又之丞は、四十七士の一人で、大石内蔵助の側近として終始、大石と行動を共にしました。
    また、文武両道で医学や薬学に詳しく、さらに、吉良上野介の屋敷跡の絵図を製図するなど、絵の才能もあった才人でした。
    討ち入りを決意した後は、姉の嫁ぎ先である北条町の渡辺家に家族を預け、同志に加わりました。渡辺家は、国の重要文化財に指定される酒見寺多宝塔を寄進するほどの名家でした。
    北条町の菊ケ谷墓地に母と姉の墓石が残っています。

    ゆかりの赤穂義士潮田又之丞

  • 祝融山多聞寺加西市尾崎町288

    赤穂藩で京都留守居役を務め、吉良邸討ち入りに参加した小野寺十内と小野寺幸右衛門親子の子孫が多聞寺の檀家であることから、江戸時代から毎年12月14日に義士祭が行われています。
    また、加西市ゆかりの戦国武将で、槍の名手として有名な大阪五人衆のひとり「後藤又兵衛」の菩提寺でもあり、現在も又兵衛の真牌(位牌)を本堂に奉安しています。

    ゆかりの赤穂義士小野寺十内 / 小野寺幸右衛門

  • 小野寺十内 / 小野寺幸右衛門 親子の碑加西市東長町(地蔵堂境内)

    東長町の地蔵堂境内に、討ち入りに参加した四十六士の内、小野寺十内と幸右衛門親子の碑が立っています。江戸時代中期に古田伴庵氏によって建立されています。
    十内には妻たんとの間に男嗣が無かったため、甥の幸右衛門を養子にしたというのが通説ですが、伴庵は十内と妾の間に生まれた子で、十内親子が討ち入り後、全国を流浪し、この地に居住しました。そして、苦楽を共にした亡家族や関係者とともに、父十内と兄幸右衛門を供養するために当碑を建立しました。

    ゆかりの赤穂義士小野寺十内 / 小野寺幸右衛門

  • 小野寺十内の子孫棟札加西市東長町(薬師堂境内)

    小野寺十内と小野寺幸右衛門親子の碑の隣にある薬師堂内に、小野寺十内の子孫の方が薬師堂を再建したことを示す棟札が残っています。
    1枚は天保10年(1839)に浅野内匠頭藩臣小野寺十内の4代末裔の3人の古田氏により、もう1枚は明治35年に小野寺十内の7代末裔の小野寺氏により再建されたことを示す棟札です。
    江戸・明治期より、十内の子孫の方々は赤穂義士の末裔であることを誇りに思っていたからこそ、棟札にその名を記録したのでしょう。

    ゆかりの赤穂義士小野寺十内

  • 仮名手本忠臣蔵絵馬加西市田原町3137(神功神社内)

    神功神社の拝殿に仮名手本忠臣蔵十二段絵馬が掲げてあります。明治44年1月に地元の氏子の皆さんにより奉納されたものです。
    仮名手本忠臣蔵は討ち入りから46年後の寛延元年(1748)8月14日に大阪道頓堀竹本座で初演され、不朽の名作として人々の支持を受けました。
    拝殿にある忠臣蔵の名場面を描いた絵馬は、播磨地方を中心に多く奉納されましたが、当絵馬はその中でも傑作といえます。
    忠臣蔵人気が地方にまで広く浸透していたことを示す資料です。

    ゆかりの赤穂義士

ゆかりの赤穂義士

  • おおいしくらのすけよしたか


    【加西市との縁】

    赤穂藩で旧加西郡大和村(現多可町八千代区)にて、灌漑用のダム建設を行った際、城代家老の大石内蔵助が工事の進行を担当し、再三訪れ、久学寺(加西市上芥田町)に宿泊し、住職と囲碁を楽しんでおられた様です。久学寺には、大石が久学寺に花岳寺の後援を依頼した文書などが残っています。

  • うしおだまたのじょうたかのり


    【加西市との縁】

    潮田又之丞は、姉の嫁ぎ先である北条町の渡辺家に家族を預け同志に加わりました。渡辺家は、国の重要文化財に指定される酒見寺多宝塔を寄進するほどの名家でした。北条の菊ヶ谷墓地に母と姉の墓が残っています。

  • よしだちゅうざえもんかねすけ


    【加西市との縁】

    赤穂領は53000石の内、加西郡・加東郡に約17000石の飛地があり、加東郡穂積に代官役所が置かれていました。その代官役所のトップである郡代を務めていたのが吉田忠左衛門です。そのため、加西・加東の村々には、忠左衛門名の免目録が散見されます。(一般非公開)

  • おのでらじゅうないひでかず


    【加西市との縁】

    東長町の地蔵堂境内に、討ち入りに参加した四十六士の内、小野寺十内と幸右衛門親子の碑が建っています。江戸時代中期に古田伴庵氏によって建立されています。十内には妻たんとの間に男嗣が無かったため、甥の幸右衛門を養子にしたというのが通説ですが、伴庵は十内と妾の間に生まれた子で、十内親子が討ち入り後、全国を流浪し、この地に居住しました。そして、苦楽を共にした亡家族や関係者とともに、父十内と兄幸右衛門を供養するために当碑を建立しました。

  • おのでらこうえもんひでとみ


    【加西市との縁】

    東長町の地蔵堂境内に、討ち入りに参加した四十六士の内、小野寺十内と幸右衛門親子の碑が建っています。江戸時代中期に古田伴庵氏によって建立されています。十内には妻たんとの間に男嗣が無かったため、甥の幸右衛門を養子にしたというのが通説ですが、伴庵は十内と妾の間に生まれた子で、十内親子が討ち入り後、全国を流浪し、この地に居住しました。そして、苦楽を共にした亡家族や関係者とともに、父十内と兄幸右衛門を供養するために当碑を建立しました。

  • おくのしょうげんさだよし


    【加西市との縁】

    東長町の地蔵堂境内に、討ち入りに参加した四十六士の内、小野寺十内と幸右衛門親子の碑が建っています。江戸時代中期に古田伴庵氏によって建立されています。十内には妻たんとの間に男嗣が無かったため、甥の幸右衛門を養子にしたというのが通説ですが、伴庵は十内と妾の間に生まれた子で、十内親子が討ち入り後、全国を流浪し、この地に居住しました。そして、苦楽を共にした亡家族や関係者とともに、父十内と兄幸右衛門を供養するために当碑を建立しました。

忠臣蔵サミット

平成元年、赤穂市の呼びかけによって「赤穂義士ゆかりの地」の所在する全国の自治体が、親善と友好を深めながら情報交換を行い、地域の活性化と発展向上のため相互協力していくことを目的に、「義士親善友好都市交流会議(忠臣蔵サミット)」が創設されました。現在、「忠臣蔵サミット」には、全国32の自治体が名を連ねており、「忠臣蔵ゆかりの地」の所在する自治体の一つを開催地とする「忠臣蔵サミット」が、年に一度開催されています。

忠臣蔵サミット加盟団体(全32自治体)

砂川市(北海道)、一関市(岩手県)、笠間市・桜川市(茨城県)、大田原市(栃木県)、安中市・藤岡市(群馬県)、千代田区・中央区・港区・新宿区・墨田区・豊島区(東京都)、新発田市・新潟市(新潟県)、諏訪市(長野県)、南知多町・西尾市(愛知県)、大津市・野洲市(滋賀県)、山科区(京都府)、明石市・相生市・豊岡市・赤穂市・加西市・加東市・篠山市(兵庫県)、津山市(岡山県)、三次市(広島県)、平戸市(長崎県)、山鹿市(熊本県)