鶉野飛行場とは

姫路海軍航空隊鶉野飛行場は、第二次世界大戦が悪化しはじめた頃、優秀なパイロットを養成するため、昭和18年に完成した旧日本海軍の飛行場跡です。飛行場の建設に伴い、昭和18年10月には姫路海軍航空隊が開設され、同時に航空整備、兵科、運用、主計、航海、機関、通信、工作、兵器、砲術、医務等の兵隊が在隊していました。
また、飛行場跡の南西には、川西航空機姫路製作所鶉野工場があり、「紫電」「紫電改」など500機余りの戦闘機が組み立てられました。当時、航空隊には、10代を中心に若者が全国から約500名集められ、ここで30時間の飛行訓練を受けた後、各航空隊へと散っていきました。昭和20年には、練習生による神風特攻隊「白鷺隊」が編成され、終戦までに63名の尊い命が失われました。現在も、飛行場跡の周辺には防空壕の跡など生々しい戦争の爪痕が見られる貴重な施設です。

大きさ

場所 兵庫県加西郡九会村、下里村(最寄駅 国鉄北条線「法華口駅」)
航空隊開設 昭和18年(1943年)10月
完成年月 昭和19年(1944年)5月
面積 2,531,040㎡(甲子園球場約70個分)
滑走路 1,200m×60m 1本・1,500m×60m 2本
運搬路 当初8,000m×30m 終戦時 15,000m
掩体壕 55ヵ所(内訳 大10ヵ所 小45ヵ所)
使われた飛行機 中、小型練習機
格納庫 木造 9,157㎡(奥行30m×幅130m)2棟
兵舎 8919㎡(庁舎・講堂・工業場・送信所・居住施設・倉庫)
給水設備 井戸2ヵ所(各150トン)
ろ過設備 稲荷山
電気設備 動力100kw 照明120kw
ガス設備 なし
自力発電所 2ヵ所
電波探信儀 1ヶ所
機銃陣地 5ヶ所

歴史

昭和16年(1941)12月8日 アメリカ、イギリスなどと戦争になる。
昭和17年(1942)9月 鶉野飛行場の建設が始まり、鶉野・中野・宮木の家と九会国民学校が立ち退きになる。
昭和17年(1942)9月 川西航空機が鶉野で飛行機組立工場を準備する。
昭和18年(1943)3月 飛行場の建設工事が始まる。
昭和18年(1943)10月1日 姫路海軍航空隊ができる。練習生や教官、教員が来る。
昭和18年(1943)10月8日 初めて鶉野に飛行機が降りる。練習が始まる。
昭和18年(1943)10月 川西航空機姫路製作所で飛行機の生産が始まる。
昭和20年(1945年)2月 特攻隊の希望者を募り選ばれ、「白鷺隊」の名前がつけられる。
昭和20年(1945年)3月 戦闘機「紫電改」の生産が始まる。
昭和20年(1945年)3月19日 初めて加西郡に空襲があり、飛行機が燃える。
昭和20年(1945年)3月31日 国鉄北条線網引駅西方で飛行機の不時着による列車脱線事故が発生。死者が多数でる。
昭和20年(1945年)
4月6日~5月4日
神風特別攻撃隊「白鷺隊」が鹿児島から5回出撃して63名の若者が戦死する。
昭和20年(1945年)7月24日 加西郡で第2回目の空襲があり、一般の人も被害を受ける。
昭和20年(1945年)7月30日 加西郡で第3回目の空襲がありさらに工場や周辺の家も被害を受ける。
昭和20年(1945年)8月6日 広島に原子爆弾が落とされる。
昭和20年(1945年)8月9日 長崎にも原子爆弾が落とされる。
昭和20年(1945年)8月15日 ポツダム宣言を受け、戦争は終わる。
昭和24年(1949年)11月 飛行場跡地は食糧増産のため田畑となり、滑走路は国の土地となる。
平成11年(1999年)10月 滑走路そばに日本の平和を願い「平和祈念の碑」ができる。
平成28年(2016年)6月 滑走路は国からの払い下げにより加西市の土地となる。

 

 

遺跡マップ

『加西市に点在する歴史遺産を散策するための加西市の公式散策アプリです。歴史遺産の紹介・説明・マップ表示のほか、普段公開されていない巨大防空壕・対空機銃座の内部を360度VRで再現、3D映像による解説を見ることができます。

「鶉野飛行場跡周辺古地図再生プロジェクト」において、貴重な史料と当時の様子を知る方からのインタビューをもとに、昭和18年当時の復元図を作成しました。
飛行場跡周辺には、今なお数多くの防空壕や爆弾粉などの戦争遺産が点在し、当時をしのばせるリアルな情景を目にすることができます。今回、「ambula map(アンブラ マップ)」による現代地図との比較で、戦時中の周辺地域をよりリアルに体験することができるようになりました。
「ambula map」を利用すると、GPS機能の埋め込まれた復元図の上を散策する感覚で操作ができます。現代地図にもワンクタップで切り替えが可能で、鶉野飛行場跡周辺の散策がさらに魅力あふれるものになります。

 

 

鶉野ヒストリー

どんな人たちがパイロットをめざしていたのか

加西市 かさい観光Navi 鶉野飛行場跡写真提供 上谷昭夫氏

パイロットになるには、難しい試験や身体検査に合格しなければなりませんでした。
ここで合格した優秀な若者たちは、国語や算数、理科などの勉強とともに体も厳しく鍛えられました。初めて鶉野で飛行機の練習をしたのは、民間飛行機のパイロットを目指していた若者たちでした。しかし戦争がはじまり、軍隊のパイロットになりました。
次にやってきたのは飛行予科練習生(以下予科練と呼ぶ)を卒業した若者たちです。予科練とは、パイロットを目指して海軍に志願し、厳しい試験で選ばれた少年たちを優秀なパイロットに育てる制度です。予科練には、14歳からは入れる「乙種予科練」と16歳からは入れる「甲種予科練」がありました。
そして最後の練習生となったのが、大学の途中で海軍に志願した学生たちでした。それまでは大学生は軍隊に入らなくてもよかったのですが、戦争が進むにつれて学徒動員という制度がつくられ、自分から志願して軍隊に入れるようになりました。

加西市 かさい観光Navi 鶉野飛行場跡写真提供 上谷昭夫氏

鶉野飛行場での飛行機の練習

飛行機には3人が乗り、一番前の席に操縦の練習をする生徒が、真ん中の席に先生である教官が、後ろの席には次に操縦の練習をする生徒が乗りました。飛行機の練習では、魚雷を命中させるために飛行機を水平にしないといけません。かたむいたまま魚雷を撃ってしまうと、狙う方向と違う方向に魚雷は進んでしまいます。
練習機は、鶉野から瀬戸内海まで飛んでいき、海上の島や漁船を敵の軍艦にみたてて、飛行機の姿勢を水平にして飛ぶ練習をしました。初めのころ、飛行機に狙われた漁船の船員は大慌てでしたが、練習だと分かると手をふるようになったそうです。

鶉野飛行場で見られた飛行機

鶉野には飛行機の工場もありました。姫路でつくられた戦闘機「紫電」、「紫電改」を一度分解して、馬車で運び、鶉野工場で再び組み立てられました。14歳ぐらいの少年、少女も働いていました。食べ物も少ない中、一生懸命に夜遅くまで飛行機をつくり続けました。そして、ここで510機もの戦闘機がつくられました。
戦闘機「紫電改」は太平洋戦争中、世界で一番優秀な戦闘機ともいわれました。そんな優秀な飛行機を加西の少年、少女たちがつくっていたのです。この戦闘機をつくった高い技術は、今も飛行機、ダンプカー、ごみ収集車、散髪屋の椅子などに使われています。

  • 加西市 かさい観光Navi 鶉野飛行場跡
  • 加西市 かさい観光Navi 鶉野飛行場跡

どちらも写真提供 上谷昭夫氏

加西市 かさい観光Navi 鶉野飛行場跡

soraかさいまでのアクセス

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    平日4往復、土日祝日5往復

    ◯北条鉄道「法華口駅」下車
    ・徒歩約40分(片道3km) 周辺戦争遺産群や滑走路跡をご覧いただきながらお越し下さい
    ・無料シャトルバス(日祝日のみ運行)※2024年6月より
    【法華口駅】10:38発、11:38発、12:38発、13:38発、14:38発
    【soraかさい】10:00発、11:00発、12:00発、13:00発、14:00発、15:00発
    ※無料シャトルバス(定員28名)は先着順となります。(満車の際はご乗車いただけません)

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